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大乗山 両徳寺

日常の中に


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昨日書いたように、月参り終了後、今日は家族で過ごす一日に。お昼に立ち寄った店は定休日、その後行こうと行っていた場所も予約で一杯と、何一つ予定通りいかなかった一日ですが、それでも立ち寄った昼食のレストランは美味しくて、かえってよかったねという話。そして、その後行先を変更して子どもたちが遊べる某広い公園に行きましたが、子どもたちも楽しかったようで、これはこれで良かったねと満足して帰りました。

さて、昨晩は友人方と一緒に飲みに行っていました。ちょうど今月の壮年会例会ではある本を題材にお話ししたのですが、その中に「お坊さんって坊主頭でなくて良いのですか?」等という話がありました。「坊主頭でなくてよいのか」「お酒を飲んで良いのか」よくある話です。現実に剃髪をせず、お酒を飲む人間をみな目の当たりにしているので最近のお坊さんは堕落しているなどという具合にしか思っていないでしょう。しかし、宗義としての明確な理由を私たちは持っています。

たまに、お坊さんに関係なく剃髪姿の人がいます。そういう人を見たとき、皆さんどんな印象を持ちますか?ある程度の年齢がいっていれば、「結果としてそうなったのか」と納得をすることもできます(失礼)。しかし、到底自然現象でなったとは思えない人が剃髪姿だとみな身構えるはずです。この人何者だろうか?と。昔も今も剃髪姿は異形の相のようです。そんな中で、お坊さんが剃髪をしていたのは、その本の中にでていましたが、それは「世俗との関係を分かつ」一つの象徴行為だったようです。世捨て人になったという一つの証といいましょうか。世を捨てているから、比叡山や高野山という山に籠もるのです(実際は全然捨ててない人がたくさんいましたが、それは今は置いておきます)。

それに対して浄土真宗という教えは、普通の人が普通の生活をする中に喜んでいく道を示した仏教です。在家仏教ですから、最初から世を捨ててないんです。山に籠もれば、人と会わないので怒りの感情はあまり生まれてこないと思います。人と別れないから悲しみの感情も少なくなるでしょう。人と人が交わるから喜怒哀楽がある。それを捨てた方が平穏な心持で生きれるかもしれません。でも、私たちは山に籠もっていません。出会いと別れを繰り返し、喜怒哀楽の真っただ中で生きていかなくてはなりません。その現場のただ中に分け入って説かれたのが浄土真宗という仏教です。だからでしょう、行橋のお寺の分布をみても、中心地域には浄土真宗のお寺が極めて多く、他の宗派は山際や海辺が多いですね。

ですから、私たちは清爽たらんとして一人で生きるよりも、悲しみを抱えたその人と一緒に一杯のお酒を酌み交わし、肩を叩きながら共に歩んでいくことが、浄土真宗のお坊さんとしては正解だと思っています。山の仏教なのに、髪があってお酒を飲むのがおかしいように、僕たちは剃髪をし、断酒しながら生きていく方がやっぱり違和感がありますね(するなとはいいません)。だから髪もあるし、お酒も飲む。子どもたちと笑い合い、怒りながら生きていく。ただ、そのどの場面でも仏教の精神と共にあるということだけは腹底に据えて生きていくことは大切だと思っていますよ。

 

昨日・今日、考えることが多かったので、ちょこっと書かせて頂きました。

 

 

 

 

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