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大乗山 両徳寺

照育


22日のこと

秋の法要が終わりました。

今年は京仲組の門徒推進員の皆さんの参拝日に指定されていたこともあってか、前年に比べて大幅な参詣者増となりました。昨年が少なかったというのはあるのですが。。お参りありがとうございました。

その秋の法要のご法話の中で井上先生がお話されたこと。光のはたらきとして照育、破闇、摂取の3つのはたらきをお話しくださいました。特に照育に焦点をあて、ご自身の子どもの頃の話から、今のお子さんの子どもの話を通して分かり易くお話くださいました。その話を聞いて思うのは、どこのお寺の子も同じような経験や想いを抱えながらやってきたということ。

私も子供の頃は門徒さんに可愛がられながら、その一方でお寺なんか継ぎたくないと飛び出した口です。ただ子どもの頃のあの可愛がってもらった印象が自分の中に強く残っているからこそやっぱりお寺を継ごうと帰ってきたのも確かです。私が偉くてお寺のあとを継いだのではないのです。長年の触れ合いがその想いを育んでくれたのです。どんな物事にもその裏があって、その想いを抱かせてくれた元があります。そこに光をあてて、仰ぐ日暮らしをしたいものです。

 

夕方。喉の調子が悪いので耳鼻科に。待合場所で順番を待っていると、診察台から子どもの大きなうめき声が。よほど痛かったのでしょう。ほどなくお父さんと男の子の姿が出てきました。泣いていた子どもにお父さんが最初にかけた言葉は、「泣かんっていっとったやないか」。私は思うんです。「痛かったなぁ」といって一瞬でいいから抱きしめることはできないものかと。子どもの頃、よく膝を擦りむいたときなんか「いたいのいたいの、とんでいけ~」とされていた記憶があります。そんなことしても痛みはなくなりません。でも、この痛みを共に受け止めてくれた嬉しさがそこにはあって、それが痛みを軽くしてくれていたのも事実です。人間は感性の生き物ですから、何を感じるかによって現実も変わるのです。わが痛みを自分のこととして共に痛み、その痛みを除こうとはたらいてくださる仏さまが阿弥陀さまです。その心に触れる中に、この感覚は忘れないように生きていきたいと思ったことです。

 

18時頃。今期京仲組の連研を受講された方全員が、本山の中央教習に3泊4日でかけておりました。両徳寺からも1名参加しておりましたので、そのお迎えに行橋駅へ。改札を抜けて出てくるお顔はみな笑顔。「御院家さん、楽しかった。行って良かった」と一言仰っていただき、こちらも嬉しかったです。両徳寺にまた宝が一つ増えました。お寺の一番の宝は、立派なテーブルでも仏像でもなく、仏法を仰ぐ人です。これから、これまで以上に一緒にやっていけることを楽しみにしています。

 

こうして新しい仲間が増える一方で寂しい話もあります。19時からはお通夜。長年、両徳寺の御正忌の立華を活けてくれていた方がご往生されました。寂しくもありますが、長年のご苦労を偲びながらお参りさせて頂きました。

 

その後は、京仲組の広報部会です。11月1日発行の御正忌号。その編集会議でした。広報部の門徒委員さん4人とも今回の秋の法要に参って下さっていてありがたかったですが、昼間の疲れもなんのその活発なご意見を僧侶以上に出される4名でした。間もなく手元に届きます。お楽しみに。

という長い一日、想うことの多い一日でした。

今日から3日間養生のため予定をすべてキャンセルして冬眠生活に入ります。

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