今日は築城のお寺様にお説教のご縁で伺っておりました。こちらのお寺の住職さんは10代からの付き合いです。長年可愛がってもらっております。ご門徒さんもうちのお寺にお聴聞に来て下さる方もいますし、今年亡くなったそうですが、母の友人なんかもいましたから、勝手に親近感をもちながら接せさせて頂いております。
今日のお昼が初座でしたが、その演台に立つ前の事。ちょっとお手洗いにとトイレに向かうと、トイレの洗面台の蛇口から水が出たまんまではありませんか!あらあらと思い水栓を締めたのですが、なぜこんなことが起きてしまうのか想像はつきました。
現在はどなたでもご自身の家庭はともかく、出先ではデパートであろうとコンビニであろうと、大抵の場所は手を差し出すと自動で水が出たり止まったりする洗面台が使われています。そんな生活に慣れてしまうと、最初は自分で蛇口をひねって水をだしたはずなのに、もう「水は勝手に止まるもの」との思いから閉め忘れるということがおきたのだと思います。一昔前は、勝手に水が止まるなんて考えもしなかったのに、人間の慣れとは恐ろしいものです。
その慣れということで思い出すのが、表題の「耳なれ雀」の話です。
蓮如上人は『御一代聞書』で、
おどろかす かひこそなけれ 村雀
耳なれぬれば なるこにぞのる
なることは雀を驚かして食害から農産物を守るための道具ですが、いつもいつも聞いていたら雀たちも「あ~、いつものやつね」と驚かなくなるそうです。それと同じことで、いつもお寺に参っている人には、初めて仏法に出会った時、もしくはしかるべきタイミングで聞いたご法話に感動を覚えた時、「この法に出遇えてよかったなあ」と思ったことはあるはずです。でも、いつもいつもお寺参りすることが当たり前になった時、「はいはい、いつも聞く話ね」といつの間にか感動はどこへやら、新鮮さを失ってただ聞き流すということが起こってきます。それでは本当に聞いた値打ちはないのだと、先人たちはこの態度を戒めるために
「今日のこのご縁は初事と思うべし」
と仰っています。なかなかいつもいつも初事と思うことは難しいことではありますが、同じ話を聞くことを楽しみ、同じ話をする中にも今日の新鮮な感覚を保ちながら向き合いたいと思った秋のお彼岸のご縁でした。