本日、明日と豊前市三毛門の善正寺様にて、北豊教区青年布教使布教大会が開催されます。この大会は久しぶりの開催なのです。というのも、近年は山口教区の青年布教使と交流布教大会なるものを開催しており、それに代替された形で消滅していたからです。しかし、各教区において布教大会を開催しなさいと言うお達しが回ってきまして、結果として教区布教大会を復活させることとなりました。
そんな久しぶりの大会の1発目の出向者が私=両徳寺住職です。じつは、今回の出向者の中で私が最年長なので、最年長の人間が最初にやると後の人はやりにくかろうと思うのですが、京仲組の人間が最初と決まってたことなので仕方ありません。上毛組のお同行多数、両徳寺門徒5名、教区内青年布教使10数名、そして今回の指導講師である田中誠證先生が見守る中での布教です。やっぱり大会ってちょっと緊張しますね。でも、今日は黒い衣が同年代の青年布教使がほとんどだったせいか、すごく皆さん優しかったです(反応が良かったです)。
布教大会ですので、終了後は講評があります。指導講師の先生と先輩からそれぞれ指摘を頂きました。一言で言うと、ご文をしっかり押さえなさいという話でした。言い訳をすると、布教大会で25分しか持ち時間がありませんので(しかも3分超過しました^^;)、フォローしきれない部分が少なからずあるものです。ただ、自分自身の傾向として、「伝えたいことが伝われば文意は話の中に含んであるから出さなくても良い」と考えているのは事実です。今回で言えば、摂取不捨ということ一つの意が明らかになれば、文自体に触れなくてよいというスタンスで話しました。そこを指摘されたということです。確かにたくさんは出さずとも、1度は出した方が良かったかなとは思います。そして、長い話(90分の通常のお説教)の時はそういう所をもう一度しっかりと踏まえて話した方が自分自身話の構成を考える時に、もっと楽に話せるなぁとも思います。今後、考慮していきたいところです。
ただ、逆に一つ自分の中にあるのは、言葉を出してそれが解説に堕さないようにということ。お説教は仏教の解説ではありません。最近は分かりやすい法話を求められると言いますし、私の話自体分かりやすいと言われますが、僕自身は分かりやすい話をしようと考えて作りはしません。ただ身近な喩え、自分の身を通して味わった話、共感できる話をしようとしているだけです。それが分かりやすさを求めるあまりに解説的になるようでは知識の話で、それでは法話ではありませんから、そうならないように、ただ法話の抑えとして文拠に触れるというスタンスを模索してみたいと思います。
布教大会は明日までです。お時間あるお方、いや、お時間を作ってお聴聞ください。
豊前市三毛門850 善正寺
0979-83-2025