本願寺新報の9月10日号にご法話を掲載して頂きました。8月下旬に書いていたのはこの原稿でした。この週末皆さんの手元に届いたようで、今日たまたまご法事に伺ったお宅の方から、「見ましたよ~、文章がす~っと入ってきました」と感想を聞かせてくれました。泣きそうです。他にも友人・知人からチラホラと感想を聞きますが、せっかくなので、ここに掲載させて頂きます。ただし、最終校正前の私の手元にある原稿の状態で載せます。
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まもなくお彼岸の季節がやってまいります。お彼岸は、仏教が発祥したインドや中国にはない日本固有の宗教行事で、太陽が真西に沈む「春分の日」と「秋分の日」を中日とし、その前後1週間をお彼岸の時期としております。
仏教においては私たちの世界と仏さまの世界を川の両岸に喩えて、私たちのこの世を「此岸」といい、これに対して、阿弥陀さまの国=お浄土を「彼岸」と呼びます。『仏説阿弥陀経』には、「従是西方過十万億仏土有世界名曰極楽」と説かれ、このお浄土は西方にあると示されます。このことから、太陽が真西に沈むこの時期にお浄土を想い、仏さまのお話を聞く慣わしとしているのです。
さて、そんなお彼岸の過ごし方を考えてみると、家族連れだってお墓参りをする光景を思い浮かべる方も多いことでしょう。
数年前、お彼岸を迎えるに先だって、あるテレビ番組で「お彼岸特集」が組まれていました。その中で、お墓参りの時に子どもたちはどんなことを思いながら手を合わせているのか、というアンケートが紹介されていました。
その結果、1位2位は「お礼」と「報告」。亡くなった祖父母やご先祖さまに、今の自分の姿を報告したり、お世話になったことへの感謝の意を伝えるために、お墓に向き合っているということでした。
そんな中で、お墓参りに来た小学校高学年の男の子が、テレビ局のリポーターからインタビューされることとなりました。
「今、お墓にお参りしていたけど、どんな思いで手を合わせていたの?」
「おじいちゃんに近況報告をしていました。今、僕はサッカーをしています。昨日も試合に出て勝つことができました。これからも頑張るから、おじいちゃんもそっちで頑張ってねって」
この時、この男の子の答えを聞いたスタジオの大人たちが一様に笑い始めたのです。その笑い声に、テレビの前の私は違和感をおぼえました。
この子の答えのどこがそんなにおかしかったのでしょうか。もし笑うとするならば、「おじいちゃんもそっちで頑張ってね」という言葉でしょう。
確かに、「人間死んだらしまい」と考えている人にとっては、死は頑張りようもなくなる姿ですから滑稽に響くことでしょう。また、「亡くなった方は安らかに眠る」と考えている人にとっても、「頑張って」と言う言葉はおかしく聞こえるかもしれません。
しかし、私たち浄土真宗の念仏者が真実信心を恵まれて命終わって「仏となる」ということは、消えてなくなるわけでも、お墓の中で眠ることでもないのです。「仏となる」とは、阿弥陀仏のご本願のはたらきによって浄土に生まれ、真実に目覚めたいのち、仏となることをいうのです。
それのみならず、浄土で仏となった者は迷いの世に還り来たって縁ある人々を護り導くはたらきをするのです。
つまり、仏となった方々は、「そっち」ではなく、「こっち」=「私」の上で〝頑張って〟下さるのです。
今、全国各地の多くの門信徒の皆さんがお寺にご参詣下さっております。そのきっかけはというと、ご自身が病気になられたことやご法義のある家庭に育った事という方もおられますが、最も多いのは両親や兄弟、お子様といった親しい家族との死別がきっかけとなる場合です。自分自身や家族のいのちが揺らいだときにお寺の山門をくぐろうと思うのです。「死んだらしまい」「消えてなくなる」で済んでいたものが、その一言では済まされなくなったということです。他人事であった死という問題が我が事に変わったということです。私たちはどんな問題でも私ごとになったときにしか、言葉は耳に入ってこないのかもしれません。そして家族との死別という状況下で勤められる通夜や葬儀、法事、法要を通してお浄土という生まれ往く世界を知らされ、私のいのちの上にはたらいて下さっておる阿弥陀さまを知らされ、気がつけば「ナモアミダブツ」とお念仏申す身へとなっておる私がいます。その私をナモアミダブツと出遇わせてくれた一連の出来事を、今「私」の上で〝頑張って〟下さっていると味わうのです。
その時その時は何も思わず、ただただ聞こえてくる言葉に耳を傾けている私たちですが、振り返ってみると「あの時のあの出遇いが、あの別れがなければこうしてお寺に足を向けることも無かったなぁ」と言う出遇いや別れは誰しもが思い当たるところがあると思います。そのお一人おひとりの導きが私を阿弥陀さまへと出遇わせて下さいました。その阿弥陀さまは自分自身の命の行く末が分からない私に、「あなたの生まれ往く世界はここだよ。この浄土に必ず救う、我にまかせよ」とお喚びかけ下さっています。その喚び声に私たちは今ここで安心を頂くのです。
お彼岸にあたり、今までの先人の皆さまからのお育てにお礼申し上げ、改めてお浄土のいわれをお聴聞させていただきましょう。