今日明日と、市内真行寺さまでの秋季彼岸法要のご縁に遇わせて頂いております。
色んなところでお説教させて頂きますが、やっぱり地元は心地よいです。知り合いの方も何人か聞きに来てくれていますし、ありがたいです。
そんな今日のお説教とは関係ない話ですが。。。
たまに、ご門徒の皆さんの中には言葉にとらわれすぎる方がいらっしゃいます。
先日あったことですが、例えば
「恩徳讃を無条件に歌うのは納得がいかない。身を粉にしてもとか、骨を砕きてもとか、戦時中のヒトラーの言う事かと思う」などと言われました。また、白骨の御文章には「たれか100年の行体をたもつべきや(誰が100年生きられようか)」という言葉があります。それを受けて、「100年生きる人たくさんおるやん」などという人もいます。
そういう人に一言。「指月の譬え」というものがあります。「ほら、あの月を見てごらん」と指さした時、その目的は何かと言うと、指先を見ることではなく、月をみてもらうことです。この指が言葉であり、月が指し示す中身です。大事なのはその言葉が指し示す中身なのです。
先ほどの話で言うと、
恩徳讃というものは阿弥陀さまへの御恩の深さをあらわしていることばです。
白骨章は、どれほど長生きをしたといっても、いのち終わっていかないものはいない
ということを言っているのです。言葉の表面を読むのではなく、言葉の内実に触れて頂きたいと思うことです。
明日もお説教、張り切ってまいります。