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大乗山 両徳寺

今年最後の布教


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御正忌以来の投稿です。実は、パソコンの調子が悪くて、なぜかネットにつながらない(事務所のは大丈夫なんですが・・・)という問題と布教で家を空けていたので更新が滞りました。

色々とありました。

13日は第3回目の読書会。また新しい方が来てくれました。それもご門徒さん。どんな形であろうと輪が広がるというのは嬉しいですね。そして、濃密な意見交換の時間を今回も持てた気がします。みんな目の前に抱えた問題に悩みながら、でも一歩一歩頑張ってるんですよね、自分の思い描く未来に向かって。ポジティブな時間は、自分の気持ちもポジティブにしてくれます。次回も楽しみです。

14日は門徒宗会議員(本願寺における国会議員のようなもの)選挙日。実は当山ご門徒の向井さんが現職宗会議員でして、今回は選挙になるということで立ち会いに別院に行きました。投票権は各組から出ている教区会議員(門徒1名・僧侶1名)さんだけです。北豊教区は9組なので18名の投票で決まります。結果、負けました。言いたいことは色々ありますが、ここでは言いません。

それを見届けてから布教先の宮崎・五ヶ瀬へ。九州道から御船で降りて向かうのですが、震災の影響で最短ルートは通行止め。回り道をしながら4時間弱かかり到着は夜8時。

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15日。朝からお説教。そんなに大きな集落ではないのですが、本堂は黒山の人だかり。嬉しいですね。夜席もお子さんを含めた大勢の参詣者がありました。16日朝席までお取り次ぎをさせて頂きました。これで今年最後のお説教が終わりました。来年1月14日までちょっと一休みですが、その間に今作りかけのお説教を絶対に完成させねばならんのです。これが冬休みの一仕事です。

 

ちなみに、16日午後から帰るのですが、阿蘇の東サイド→久住→湯布院とぬけて帰ったのですが、雪がね。。こんなに寒くなるとは思わなかった宮崎行きでした。そして帰るとすぐにお通夜。行橋斎場さんが手がけている「結」という新しい会館。7月にオープンしたそうです。民家を改装(ほぼそのまま)して斎場にしているのですが、初めて行きましたが自宅葬的な雰囲気があり、これはこれで良いかと感じました。もちろん、人数は入らないので少人数向けではありますが。。そんな訳で17日の今日は午前法事からの午後葬儀→還骨という一日でした。明日は日曜日。法事法事の合間に組内の御正忌にも参りに行かねばなりません。3軒くらいかぶって開催中ですので、何とか隙間を作って行かねば間に合いません。

お坊さんも走る季節、師走ですね。(僕は年中走ってるんですけどね)

“今年最後の布教” への4件のフィードバック

    1. 難しい質問です。
      今、考えているのは仏説阿弥陀経についての法話なので、まずは阿弥陀経について今一度学び直します。そして、お釈迦様がこのお経を通して伝えたかったポイントを自分の中で整理します。そこから、今度は講義ではないので、聞く人に伝わるように例話などを加えていきます。不思議なもので、この事についての話がないだろうかとずっと思案していたらご門徒さんとのやりとりやTV・ラジオ・新聞などの中にもひっかかる話が出てくるものです。それを要素として加え、一番伝えたいことからぶれないように、お話しさせて頂きます。もちろん、試行錯誤の繰り返しなので、何回も話したり修正したり、意見を聞いたりしながら1年がかりでやっとそれなりに形になってくるという感じでしょうか。
      ただ難しいのは、法話は理解を促すためにするのでなく、悦びを共感していくものなので、最終的には自分自身の向き合う姿勢によって伝わっていくものなのだとは思います。
      ここを言葉で説明するのはちょっと僕には難しいです。
      答えになったかわかりませんが、こんな感じです。

  1. へー、お説教ってその様に作るんですね。少しだけ分かりました!ありがとうございました。法話は話す人と聞く人が悦びを共感する為のものなんですね。しかし、[最終的には話す人の向き合う姿勢]というのは難しくて分かりませんでした。
    うーん、、とにかく話す人の悦びが聞く人に伝わっていくものがあるのが法話なんですね!だとするとそれは聞いてる人も共感できる(話してる人と)同じ悦べるものがいただけるからなんでしょうね。
    それがお念仏の救い!?なんですかね!?

    1. こんばんは、タイムラグがあってすみません。そうですね、法話は話す人と聞く人が悦びを共感する為のもの、だから自分自身が仏法に向き合ってないと、口先だけで話しているみたいになって、説得力が感じられないと思うんです。耳障りはよい話はしてあっても、全く耳に入ってこない人っていますから。僕自身、昔「君はいつも楽しそうにお取次ぎするね」といわれたことがあって、あれってすごく大事なことだったんじゃないかと最近思い返しています。慣れてくると、面白い話とか泣ける話とか、そういう小手先の技術に走りがちになってしまう所が誰にでもあって、だからこそ「初心わするべからず、自分が阿弥陀様にしっかりと向き合っていたら聞く人は聞いてくれる」と言い聞かせて布教に臨もうと思います。それを[最終的には話す人の向き合う姿勢]と書きました。

      ちなみに、話し手は一つの縁ですから、そこに共感したとしても、布教使自身には帰依しないでくださいね。あくまで尊ぶべきは仏法そのものですから。お念仏に値打ちがあるのであって、お念仏を伝えた人間に値打ちがあるわけではないですから。

      あなたが、話す側の人間なのか、聞く側の人間なのかはわかりませんが、私はお説教の基本はお聴聞と思っていますので、話すにしろ聞くにしろとにかくたくさんの法話を聞き続けることが一番大事ですね。今はちょうど西本願寺の御正忌報恩講が勤まっています。ネットライブ中継もありますし、たくさんお聴聞してみてください。

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