今日も様々ありました。朝はランニングから月参り。昼は組内寺院でのお葬儀。帰って夕方は双子会。夜はお通夜のご縁でした。様々に思う所があった一日でした。
朝の月参りでは昨日の読書会の話しに。来てくれているご門徒さんなので。そんな中で以前東京に住んでいた時のお話しとして、「東京の人はふるさとを持っていない」という話が印象的で。正確には、東京生まれ東京育ちだと、東京がふるさとなんですが、東京に「ふるさと」らしさが感じられないのですよね。だから、帰りゆく場所のある人を羨ましく思っているということなんですね。もちろん、みんなじゃないでしょうが、なるほどなぁ~っと思います。僕はあまり東京で暮らしたことはないし、たまにしか行かないけど、行くたびに「ここで生活はしたくない」と感じちゃいます。仕事の為に一時滞在する場所ではあっても、身を落ち着ける場所ではないと、なんとなく空気感から感じてしまいます。そういうことなんでしょう。
帰りゆく場所を持ち得る身はありがたいです。私たちはお浄土という帰りゆく場所を持っています。「死んだらしまい」としか思えない人間よりも、帰っていける世界があるというのはありがたいですね。それをまた感じさせていただいたのが、お昼のお葬儀のご縁です。このお葬儀でありがたかったのは、地域の老人会の弔辞。失礼な話、大概の地域は支離滅裂なつぎはぎの文章を読んでいます。おかしいよと言っても聞く耳をもちません。でも、今日の今川校区の弔辞は素晴らしかったです。聞けば、先代真行寺のご住職さま、現・永楽寺のご住職さまの努力の賜物のようです。不正確で申し訳ないですが、
「私たちは親しき身内を亡くして悲しみに堪えません。でもその何万倍もの悲しみをもってわが身に接してくださったのが阿弥陀さまです」。阿弥陀様の大悲の心を告げてくださいました。そこに、お浄土というまた遇う世界が生まれたのだという心を読んでくださいました。
ありがたいご法縁でした。
帰ってからの双子会。みんな子どもたちが体調を崩しぎみのようで、あまり集まりませんでしたが、密にお話しさせて頂きました。
そして夜はお通夜。祖母と2つ違いのお方。大変お世話になってきたようでした。物を作り、人に施すことが楽しみというお方。
重誓偈の
我於無量劫 不為大施主 普済諸貧苦 誓不成正覚
という言葉を思いながら、お取次ぎ。ご法名もここから頂きました。
ちなみに、先日の記事に関連して一言。お通夜は97歳の方でしたが、会葬者は80人程度(目算)。ほらね。都会ではこの年代になると付き合いがないので参ってくる人もほとんどいないんでしょうが、適度な田舎の行橋ではやっぱりみんな参ってくるんです。正信偈のお勤めの声が後ろから聞こえてきて嬉しいひと時でした。