忘れられない言葉があります。
それはあるお葬儀でのこと。祖母を亡くした18歳の男の子が、弔辞でこんな話をしてくれました。
「おばあちゃんの具合が悪いことは、随分前から知っていました。母は僕に「おばあちゃん、具合悪いんよね」と何度も言っていたからです。おそらく、母はおばあちゃんのいる故郷に一緒に帰って欲しかったのだと思います。そうだと知っていたのに、僕は「ふーん、そう。ふーん、そう」という一言で聞き流していたのです。でもこうしておばあちゃんが亡くなり、その手に触れてみると、僕は涙が止まらなくなりました。こんなことなら何で今まで帰ってこなかったのか、今になって後悔がやみません」。彼は祖母の手の冷たさに触れたときに、今まで抱かれていた温もりに出遇ったのです。
私たちは失ってみて初めて温もりを知るということがあります。法話をお聴聞すると、阿弥陀さまのお慈悲の心に抱かれていると聞きますが、私たちは「そんなものありはしない」と否定してかかります。でもそれは、失ったことがないから気づいてないだけなのかもしれません。
「おかあさん」(作詞:西條八十 作曲:中山晋平)という歌があります。
おかあさん おかあさん
おかあさんてば おかあさん
なんにもご用はないけれど
なんだか呼びたい おかあさん
なぜ子どもは用もないのに「おかあさん」と親の名を呼ぶのでしょうか。それはこの言葉の響きの中に親に抱かれたぬくもりを感じるからです。
今、阿弥陀さまは「ナモアミダブツ」という声の姿の仏さまになって下さいました。姿・形あるものは、壊れもするし、離れもします。しかし声であれば、私が一声称えるところにいつもあらわれて下さいます。我が口からこぼれ出る「ナモアミダブツ」の響きの中に阿弥陀さまに抱かれたぬくもりを味わいたいものです。